【重文級】徳川家康(竹千代)鶴図 竹千代署名・花押軸先:木紙本【サイズ】32 x 38 cm(本紙)85 x 41 cm(全体)【徳川家康】1542-1616江戸幕府初代将軍。在職1603~1605。織田信長と結んで駿河を豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣氏五大老の筆頭となり秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。秀忠に将軍職を譲ったのち駿府に隠退したが、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。★幼少期から初陣★三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時)に岡崎城 にて誕生。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元が尾張国の織田氏と同盟し、織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない。また、近年の研究では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。2年後に広忠が死去する。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名を娶る。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改めている。【状態】全体にシミ、折れ、虫食い穴があります。